四條畷の合戦

南朝方の後醍醐天皇に味方した楠木正成が、北朝方の足利尊氏と戦い兵庫湊川で戦死したのが、動乱の始まった年の1336年。その10年後、父正成の遺訓を守って足利氏に戦いを挑んだのが正行・正時兄弟です。その最後の決戦の場が、ここ四條畷でした。


わずか3千の兵を率いて吉野を出発した正行が、足利氏の武将、高師直[こうのもろなお]が率いる6万の大軍と四條畷で遭遇。正行軍は、清滝川の北側で指揮をとる師直を目指して進撃しますが兵も馬も次々と失い、8時間に及ぶ激戦の末、正行は無念の涙を飲んで腹かき切って果てたといわれます。

 

その家臣、和田賢秀はなおも一人で師直の首をねらいますが果たせず、首をはねられます。その首が敵の喉に噛み付いて離れなかったと言われ、以来賢秀は「歯神さん」とあがめられることになりました。正行の死後80年ほどして、彼の霊を弔うために小さな石碑が建てられ、左右に楠が植えられました。この2本は成長して1本に合わさり、石碑を包み込んでしまいました。小楠公墓所楠の巨木がそれです。

 

墓所は明治8年になって1054坪に拡張され、7.5メートルの石碑が建てられ、さらに墓所からまっすぐ東に突き当たった飯盛山麓には四條畷神社が建てられました。(写真は四條畷の合戦絵巻『国史画帖大和桜より』)

 

四條畷市オフィシャルウェブサイトより